紀伊半島の環境保と地域持続性ネットワーク 紀伊・環境保全&持続性研究所
連絡先:kiikankyo@zc.ztv.ne.jp 
ホーム メールマガジン リンク集 サイトマップ 更新情報 研究所

 本の紹介

   鶴見和子: 南方熊楠・萃点の思想

           −未来のパラダイム転換に向けて−

              藤原書店  2001年発行  190頁

 (本の構成)

 T  転換期の巨人・南方熊楠
 U  創造性について -柳田国男・南方熊楠・今西錦司
     幕間 
 V  南方曼荼羅 -未来へのパラダイム転換に向けて-
 W  対談「南方曼荼羅」をめぐって   -鶴見和子 VS 松居竜五
     あとがき 

 (書評)
 著者の専攻は比較社会学であり、1970年代から南方熊楠研究を行い、これまでにも「地球志向の比較学」(1978)などを著している。南方熊楠の生涯等については、「南方熊楠記念館」のホームページに掲載されているので参照して欲しい。

 著者は、南方熊楠の生涯と仕事について、幾つかの特徴を述べている。すなわち、(1)柳田国男とともに日本の民俗学の創始者であるが、人文・社会科学と自然科学の接点で仕事をした、(2)南方は独学によって大学者となった近代には稀な人物である、(3)南方の生涯は、海外漂泊の時期と、故郷の和歌山県への定住の時期とにはっきりと分けられる、(4)西欧の学問の受け売りには飽き足らず、柳田国男とともに「東国の学風」を創ることを目指した、(5)書斎に閉じこもることなく、那智時代には山中で生物採集を命がけで行い、田辺時代には先駆的な自然保護運動を行ったことである。

 著者は、南方の創造性は、上記のような彼自身をめぐる異質な文化や相反する境遇の中から、それらの間の新しい結びつきを創り出そうとする強烈な意思と努力によって生まれたものではないかと考え、その創造性の謎解きという意味を込めて本書をまとめている。

 著者は、まず、南方熊楠の生涯と仕事を詳しく特徴付けて描いている。その中で印象なことを挙げるとすると、大学予備門を中途退学し、20歳で勇躍米国に出発し、そこでも農学校を途中退学したものの、図書館に通いながら自然観察を続け、在米民権派と交友する。そして、その後、曲芸団とともにカリブ海の島などを巡って植物採集を行い、さらに、英国に渡って困窮しながらも大英博物館に通い科学的思考を鍛錬していった。しかし、ついに、やむを得ず帰国することになる。帰国後も、紀伊半島の一隅で漂泊の志を全うできなかった挫折感を味わいながらも、海外雑誌に論文を投稿し続けるなど、自らに厳しい学問修行を課すとともに、知的好奇心を持ち続けた点である。

 帰国後において、南方熊楠の唯一の社会的実践活動となった神社合祀反対運動は、合祀(統廃合)によって鎮守の森が伐採されることをエコロジーの観点から反対したものであった。著者は、南方がこのような活動を行った背景には、米国時代の自由民権家との出会い、「森の生活」を著したH.D.ソローの思想を知っていたらしいこと、那智の原生林で粘菌などの生物が環境変化に極めて敏感であり、生物を守るためにはそれを支える生態系を守ることが必要であることを知っていたからであろうと推察している。

 次に著者は、柳田国男、南方熊楠、今西錦司という独創的な仕事をした3人を比較して、創造性について述べている。異質な文化(西洋科学と東洋・日本の伝統)との格闘の中から新しい学問の方法や創造性が生み出されてくること、また、自然や環境を全体的に把握していくことを目指す新しい学問的方法の中からも創造的な仕事が生まれて来るであろうと述べている。

 また、著者は、南方の残した文献資料を整理していく中で、「南方曼荼羅」と名づけられた考え方を述べている。すなわち、著者は、「南方曼荼羅」とは、真言密教にある曼荼羅からイメージされ、自分の哲学や世界観に従って、それぞれの人が森羅万象(物質的、精神的、社会的)の配置図を作り、それらの相互関係を捉える科学的方法論のモデルであると解釈している。そして、「南方曼荼羅」の中で、最も多くの因果系列が出会うところを意味する「萃点」を強調した。複数の因果系列が出会うことによって相互に影響し合い、単独の場合と異なる結果が生じるのである。南方は、「曼荼羅」から、自然と人間界の出来事への全体的なアプローチの重要性を言わんとしたようだ。

 さらに、仏教の「因縁」という言葉は、因果律(必然)と縁(偶然)を意味しているが、南方はその頃の西洋科学が決定論的な因果律だけを対象としていたのに対し、ものごとの現象には偶然性が大きく作用していると認識し、偶然性についても科学的方法論に欠くことが出来ないと考えていた。今日においては、統計的、あるいは確率的な学問研究の方法や考え方があるが、当時はまだ萌芽的なものであり、19世紀から20世紀の科学への学問方法論の転換時期に、南方は上記のような全体的アプローチや偶然の考え方を暗示する考え方を持っていたことになる。

 本書で著者は、創造性はどのようなところから生まれてくるかという問いを自問しながら、南方から1つの答えを得ている。南方熊楠という東洋・日本の伝統文化を背景に持つ強烈な個性が西洋文化と出くわした時に、自ら背負った背景(個性)を大事にしながら、新しい学問的問題に立ち向かうことによって創造的な仕事をすることができたのではないかと考えている。

 本書は、抽象的でやや難解であるが、読むことによって、和歌山県の生んだスケールの大きな人物の苦難に満ちた、しかし、自らの欲する道を歩み、さまよい続けた、熱い人生を知ることができる。また、個人、組織、地域のそれぞれの課題を解決していくためには、主体的に関係する因果関係を個別的にだけでなく、相互関係として全体的に捉えていくことが重要であると改めて認識させられるとともに、創造性を発揮していく上でのヒントが得られる。 (2006.12.21/M.M.)
「本の紹介」へ
「ホーム」へ